【千葉県】【廃墟】埠頭に生える不気味なキノコ~千葉港信号所跡

【千葉県】【廃墟】埠頭に生える不気味なキノコ~千葉港信号所跡
 

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千葉港。

 

市川市から袖ヶ浦市にかけて広がる広大な港湾。港湾法で言うところの国際拠点港湾、港則法上では特定港に当たり、年間貨物取扱量は全国2位という日本における重要な港の一つである。

 

また、港の面積においては日本一の24800ヘクタールで、日本三大貿易港に含まれている。

 

その千葉港に、見るからに不安定で圧倒的な不気味さを纏う、異質な廃墟が存在するのをご存じだろうか?

 

美浜区新港最南東端

地図リンク

美浜区と名付けられた地区はかつて全域が海であった。それが1963年に千葉県が土地造成、港湾地区計画を発表し、1967年の3月14日に埋め立て地を千葉市新港しんみなととして制定した。1994年4月1日には千葉市が政令指定都市となり、千葉市美浜区新港に変更された。この新港埠頭には、液化天然ガス、木材、石油と言った大規模な工場が立ち並び、絶えず大型車両が出入りしている。

 

埠頭の最も南東、つまりは最南東端に今回のホシとなる物件が佇んでいる。千葉港信号所、それがこの場所の名前である。

 

不気味に目立つ謎のUMA

マリンスタジアムや幕張メッセが立ち並ぶ幹線道路を東へ進み、海浜橋という名前の三叉路にぶつかる。更に東を目指していくと…。

 

おお…何か聳え立ってるよ…。上の写真中央に写る逆三角形のシルエットをした建物が信号所跡である。

 

まだ直線距離にしておおよそ100mはあるというのに、嫌でも目立つ異形の塔だ。

 

近付くにつれ、その姿は徐々に大きく見え、それに比例するように、背筋が謎に寒くなってきた。言い様の無い不気味さと言うのだろうか、これまで見たことの無い建造物に自分の体が強張って来ているのが分かる。

 

そしてついに………

 

埠頭で朽ちし異界の廃墟

新港に残る埠頭のシンボル

澄み渡る青空に全く似つかわしく無い、ボロボロに朽ち果てた塔。

 

長きに渡り埠頭の強烈な潮風に晒され、外壁は所々崩落し、辛うじて原型のみを留めている。

 

千葉航路の安全を守り続けてきた港の守護者、千葉港信号所は役目を終え、ただただ沈黙していた。

 

外観監視

ちょっと外観をチェックしてみよう。全体を防護ネットに覆われ、壁面が地上へ落下するのを防いでいる。しかしそのネットも随所で破けが見受けられ、新たに張り直す必要があるように感じられる。

 

窓が張られた階層は2階層あり、ざっくり目算でおおよそビルの3階に当たる高さ(約11m)にこの信号所2階部分がある。窓の外は柵が設けられていてベランダのようだ。あまり無いかもしれないが、現役時代は職員がベランダに出て、船舶を直接目視することもあったかもしれない。

 

ちなみにGoogleEarthで高さと外周を計測したところ、高さ約25m、外周約16.73mと分かった。現在稼働している千葉中央埠頭の信号所は約26mなので、それよりも若干低いことになる。

 

2階より下部の支柱は螺旋階段などは無く、完全に上部を繋ぐのみの役割となっている。これは恐らく、テロ対策だろう。このことについては後程解説する。

 

塔の最上部にはアンテナを取り付ける為と思しき部分がある。無論アンテナは撤去されており、往時の様子を知ることは出来ない。

 

当たり前だが、信号所の入口はバリケードが施され、立入禁止となっている。確かに外壁があちこちで剥離しているし、最悪塔が崩落でもしたら大変だから適切な処置と言えるだろう。撮影者の視点から欲を言えば、もっと近くで撮りたいというのが本音だが・・・。

 

信号所事務所に上がることが出来る唯一の入口。写真右に見える扉がそれだ。支柱の内部は螺旋階段になっていると思われ、階下を行き来していたのだろう。写真左手には車庫のような物がある。3台分の格納スペースがある為、一見すると信号所職員の車両を入れていたようにも考えられるが、恐らくは資材置き場だったのではないだろうか。実際新港埠頭の道路脇には路上駐車が当たり前のようにされていて、とても信号所だけ車庫に車を入れていたとは考えにくい。

 

バリケードのすぐ左側にはポストが設置されており、しっかりと「千葉港信号所」という名前が刻まれていた。当時運用していた東洋信号通信社は1932年に横浜にあった万国信号所と神戸船舶通知社の2社が合併したことにより生まれた会社である。主に東洋信号通信社が千葉港信号所で行っていた業務は千葉航路を通航する船舶に対して、ポートラジオを発信していたようだ。これは各港湾を利用する船舶に対して様々な情報を提供する無線局である。

 

鈍色キノコタワー

ズズズズズ・・・・

 

・・・という音がどこかから聞こえてきても可笑しくは無い。圧倒的な存在感。その存在感は恐らく、この塔が既に廃墟であることに由来しているのだろう。

 

青空の中、敢えて明度を落とし、ケラレ状態にすることで信号所の不気味さと噛み合わせてみたが、なかなかどうして、雰囲気が出ていると自負している。最も、青空より曇り空の方が良く似合う光景にも思えるが。

 

チャレンジ!垂直二段飛び

・・・ここで、衝動に駆られた。

 

それは、「信号所と海を入れて撮りたい」だ。

 

どうにも平地からでは防波堤が邪魔で奥の海が写らない。かと言ってドローンを持っていない僕には空中撮影という芸当も出来ない。

 

・・・なら、やることは一つだろう・・・?

 

壁を、登ろう。

 

・・・だが壁の高さは目算で3~4mある。階段や梯子と言った類が周囲に無いし、普通の状態ではとても登れそうに無い。今回探索で乗ってきたMTBのラン(アバランチェGTだからラン)と比較しても高いことが分かるはずだ。

 

手を伸ばしてみても、到底届くわけも無く、まだあとだいぶある。・・・・・ふむ。

 

まず、秘境探索で愛用している、アトムの耐油、耐水、耐摩擦のゴム手袋を手にはめます。

 

次に、サイドポーチに一眼レフを入れ、ジーンズのベルトに装備します。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 

はい、登りました。

 

この防波堤は下部と上部で若干傾斜が異なっていて、上部は垂直だが下部は80°くらい。少し助走をつけて飛び、右足を下部にかけて飛び、左足を上部にかけると同時に両腕を伸ばして壁面を掴み、後は身体を引き上げて登るという感じ。垂直二段飛びはすごく難易度が高い訳では無いが、失敗するとバランスを崩して後頭部から落ちるか、膝などが壁と擦れて怪我をすることもあるので、この手のことは自己責任でお願いしたい。

 

すぐ後ろは当然海で、消波ブロックが僅かに積まれている。ただ、消波ブロックから防波堤上部までの高さはジャンプで届かないし、ここら一帯は大型タンカーも停泊出来る程なので軽く水深10mはあるはずだ。本当は防波堤の上に立って撮影したかったが、幅がほとんど無い上、風もそこそこ吹いていたので、バランスを崩して海にザブンしたらまず助からない。大人しく座った状態で信号所の撮影を敢行することに決めた。

 

アナザービュー信号所

防波堤の上から撮影したのがこれだ。本当にうっすらだが、海が構図に入り、奥の工場群も写せた。位置関係上、海の水平線と塔の垂直が全く合わず、撮影時は非常に不安定な写真になった。Lightroomでレタッチし、だいぶ修正したがよくよく見ると塔が歪んでしまっている。まあ、これはこれで良しとしよう。

 

防波堤に腰かけたまま東の方へ一眼レフを向けるとJFEスチール製鉄所が写る。粗鋼生産量が日本国内第2位、世界でも第8位という大規模な製鉄所だ。ここ東日本製鉄所千葉地区は、戦後日本で初めて建設された臨海製鉄所だそうだ。広さにして東京ドーム約170個分で面積にすると約766万㎡。・・・広すぎてピンと来ないが、同じく千葉市内にある幕張メッセで東京ドーム約4.5個分、面積が約22万㎡。如何にこの製鉄所が大規模か分かるのではなかろうか。

 


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机上調査

千葉新港周辺と信号所の歴史

ここいらで一旦千葉新港周辺と千葉港信号所についての歴史を纏めてみようと思う。

1873年(明治6年) 千葉県が誕生。

1910年(明治43年) 千葉県は都川みやこがわ河口及び水域に水深2m程を浚渫しゅんせつし船溜りを作る。更に船溜りに11万㎡の出洲埋立地を作り港湾としての体系を整える。

1922年(大正11年)5月27日 内務省告示第131号により港湾指定を受ける。

1948年(昭和23年)7月16日 千葉港の港則法に基づく港域が決定される。

1953年(昭和28年)3月25日 千葉県が千葉港の港湾管理者になる。港湾法に基づき千葉港が地方港湾に指定される。

1953年(昭和28年)6月 千葉航路が完成。

1954年(昭和29年)3月20日 港則法に基づく特定港に指定された。

1956年(昭和31年) 東洋信号通信社が千葉県から千葉港信号所の業務を受託

1957年(昭和32年)5月20日 千葉港が港湾法に基づく重要港湾に指定された。

1963年(昭和38年) 千葉県が土地造成、港湾地区計画を発表する。

1965年(昭和40年)4月1日 千葉港が港湾法に基づく特定重要港湾に指定された。

1966年(昭和41年)10月1日 出洲信号所による千葉航路管制業務開始(点滅板、形象物)

1967年(昭和42年)3月14日 埋立部分より千葉市新港を設定する。

1973年(昭和48年)3月10日 千葉信号所が中央区出洲埠頭から美浜区新港埠頭先端部へ移転し、新港信号所業務開始(閃光式、形象物)

1979年(昭和54年)8月30日 千葉市高浜(現:千葉市美浜区高浜)にあるパイプライン工事現場を成田空港反対派が時限発火装置にて放火し、杭打機4台が全焼。

1983年(昭和58年)8月8日 47kmにも及ぶ成田空港石油パイプラインが完成。

1985年(昭和60年)6月4日 新港信号所無人化(閃光式)

1992年(平成4年)4月1日 千葉市が政令指定都市に移行し、千葉市新港から千葉市美浜区新港になる。

2011年(平成23年)4月1日 港湾法改正により、千葉港が特定重要港湾から国際拠点港湾へと名称が改正された。

2012年(平成24年)3月13日 千葉信号所を美浜区新港埠頭先端部から中央区中央埠頭へ移転し、千葉中央港信号所業務開始(LED閃光式採用)

参考:千葉港のあゆみ新港(千葉市)成田空港問題の年表千葉海上保安部 組織・管轄等 3.沿革東洋信号通信社 沿革

 

上の年表からも分かるように、元々千葉港は土地として存在せず、海を埋立たことで出来た埋立地だ。

 

出典:今昔マップ、1/50000「千葉」明治36年側図

 

明治36年の地図を見て見ても、千葉市に埠頭は全く描かれておらず、現在の海岸線とは大きく異なるのが分かる。埋め立られる前まではなんと国道14号線、国道16号線付近まで海岸線があったのだから、驚きである。古くは寒川と呼ばれる場所が港として栄えており、歴史は鎌倉時代まで遡る。

 

千葉市の中心に流れる都川にあった寒川港は船着場としては原始的であったが、江戸時代末期には農作物を江戸や横浜に運ぶ海運が盛んで、出荷港として重宝されていた。しかし1894年(明治27年)7月に市川駅から佐倉駅までの区間が総武鉄道として開業。これにより栄えていた海運が鉄道へと移っていき、寒川港は衰退していく。

 

出典:今昔マップ、1/50000「千葉」昭和19年部修

 

1910年(明治43年)には寒川港から程近い出洲を埋立たことにより、出洲港が開港。この出洲港こそが、現在に続く近代的な千葉港の原点そのものと言える。その後1953年(昭和28年)6月に千葉航路が完成し、1966年(昭和41年)10月1日から出洲信号所による航路管制がスタートする。

 

出典:今昔マップ、1/50000「千葉」昭和55年二編

 

1980年(昭和55年)ともなると、出洲埠頭がほぼ現在の形になり、新港埠頭、不完全だが中央埠頭についても作られつつある。加えて地図にも信号所が描かれているのが分かる。1973年(昭和48年)3月10日から千葉信号所は出洲から新港へ移転し千葉港信号所として39年間役割を果たすことになる。

 


出典:今昔マップ、1/50000「千葉」平成12年修正

 

平成12年までには中央埠頭が完成し、今日の千葉港が完成する。信号所もこの頃は新港が現役で、その12年後の平成24年に役目を終えることになる。

 

27年間無人だった千葉港信号所

ところで、年表を見ると興味深い点がある。それは1985年(昭和60年)6月4日から千葉港信号所が無人化されていたという点だ。正直なところ、目を疑った。年表から読み取るに、39年にも及ぶ千葉港信号所の歴史において、なんと27年間も人がいない状態で稼働していたというのだ。

 

では、一体どうやって無人化した後、管制業務を行っていたのか?調べていたところ、とても参考になる記事を見つけた。

 

(前略)塩釜信号所を宮城保安部内に移転し、港内管制業務を開始しました。昭和38年から馬放島の塩釜信号所に管制官が常駐し、航行管制業務を行っていましたが、宮城保安部から管制官が遠隔操作で信号灯を操作・監視し、航行管制を行うようになりました。

信号所の無人化、信号灯の老朽換装 – ゼニライトブイより一部引用

この内容を読む限り、信号所の無人化はさして珍しいことでも無く、通信技術が向上した現在ではもはや当たり前なことであるようだ。千葉港信号所のような施設を航路標識で言うところの「船舶通航信号所」と呼び、レーダーやテレビカメラによって船舶の情報を収集し、航行に必要な情報を提供する重要な役割を持っている。この管制業務を行っているのが海上保安庁であり、千葉港では第三管区海上保安本部の千葉海上保安部がその管轄である。千葉海上保安部は千葉港から程近い、中央港に管制室があり、遠隔操作で航行管制を行っていたのだ。

 

千葉港信号所の管制信号

話は変わるが、この信号所はどのように船舶に信号を発していたのだろうか?このことについてもまずは下の文章をお読み頂きたい。

 

(前略)千葉航路の管制信号施設として供用してまいりました新港信号所ですが、このたび千葉港中央ふ頭の南西端に新設された県の施設に移転することになりましたので、お知らせいたします。(中略)なお、新しい信号所の信号は今までと同じ赤・白2色の点滅式信号で、信号の意味も従来どおりです。

千葉航路管制信号施設(新港信号所)の移転につきましてより一部引用

上で言う、「新しい信号所」と言うのは勿論、千葉中央港信号所のことである。つまり、千葉港信号所も千葉中央港信号所も船舶に対しての管制信号は同じ方法、意味で行われていたということになる。また信号の意味については以下の通りである。

 

出典:管制信号の運用について

千葉海上保安部より千葉航路を運航する船舶に対して出される信号だ。赤と白の2色を意味によって異なる点滅のさせ方をして使い分けていることが分かる。

 

異様なフォルムの裏付け?成田空港問題と信号所

先程「外観監視」の項目で「支柱に階段が取り付けられていないのは恐らくテロ対策」と書いた。その裏付けについて考察していきたい。

 

実は過去、美浜区新港はとある反対派からの襲撃に遭ったという経緯がある。なんとなく千葉県ということからその反対派の察しがつくかもしれないが、成田国際空港建設の反対派である。何故港が襲撃されたのかと言うと、飛行機を飛ばす上で絶対に欠かせない物を運用する施設があるからだ。それは燃料。ここ千葉港は成田国際空港へと続く燃料パイプラインの起点となっているのである。

 

出典:~ おかげさまでパイプライン供用30周年 ~ – 成田国際空港(2013年8月5日)

上の画像に寄れば、千葉新港でタンカーから送り受けたジェット燃料を、47kmにも及ぶパイプラインを経て、成田国際空港へと運ばれている。このパイプラインは空港が開港した5年後の1983年8月8日から供用が開始され、それまで鉄道にて輸送していた燃料がダイレクトに飛行機へ給油出来るようになった為、送油能力が大幅に上昇し、航空機の運用量も飛躍的に向上したのだ。

 

しかし、一般的に成田空港問題で知られる闘争では空港にまつわる様々な場所が攻撃の標的となった。事実、成田空港問題の年表には1979年8月30日に新港から程近い、美浜区高浜(当時は千葉市高浜)にあるパイプラインの工事現場を反対派が時限発火装置で放火し、杭打機4台を全焼させるという事件が発生している。上記の年表に書いたのがそのことだ。それに伴い、信号所付近には常に警察官が常駐し、反対派による暴動に備えている。

 

千葉航路を行き交う船舶を管制する信号所がテロによってジャックされたともなれば、港は大混乱に陥り機能しなくなってしまう。そうなれば反対派の思うつぼであり、闘争は再激化し空港の存続が危ぶまれる、ということになるかもしれない。

 

要するに塔の事務所が地上から高い位置であること、支柱に階段が無いことは成田空港反対派によるテロを警戒してのことなのだろう。

 

最後に

かつて千葉航路のシンボルとして海路の安全を守る役目を担ってきた千葉港信号所。四半世紀以上の期間ののち廃止となり、眠りについた。

 

願わくば、この印象的な廃墟が長きに渡り、残り続けてほしいものである・・・。

 

 


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