徳山村、という村があった。
ダムマニアや廃村好きな方であればご存知かもしれないこの名は、かつて岐阜県揖斐川町にあった村である。
ダム建設に当たり、徳山村の全域が水没するということで論争が巻き起こったが、無事終息し、ダムが完成した、というのが簡単なあらましだ。
ダムと湖の名称は、徳山ダム、徳山湖と言い、徳山湖に関しては2019年8月現在、日本最大の貯水量を誇る人造湖なのだ。
そんな徳山湖の一角には、水没した徳山村を偲ぶ為残された神社跡があり、雄大な徳山湖を見渡せる展望台となっていることはご存じだろうか?
六社神社跡宮
徳山村ではダムによって水没する前、徳山本郷、下開田、上開田、山手、櫨原、塚、戸入、門入という8つの集落が存在した。
それら8集落にはそれぞれを代表する神社が祀られていたが水没に際し神社の移転、つまりは神様の引っ越しをしなければいけなくなり、8神社全てが同県本巣町へと合祀され、徳山神社と名付けられた。
その内の一つが今回の舞台となる上開田の六社神社跡宮という訳である。
跡宮というのは検索したところで項目として挙がらないが、他神社での経緯を見る限り、読んで字の如く「当時神社が設けられていた跡地」と考えて良さそうで、徳山村が栄えていた頃、六社神社が建てられていたのであろう。
僕が現地を訪れた際には六社神社跡宮なる存在を知らず、カーナビ上でも鳥居のマークがあるだけで、何があるのかは分からなかった。従って初めは徳山会館を目指していたのだが、成り行きから跡宮まで向かうこととなった。本レポートでは跡宮までの道のりと、広がるその景色を知らせ綴っていきたい。
湖畔奥へ伸びる半廃道
先への案内が無い怪しげな半バリ
現在地は国道417号線。徳山ダム堤体より数キロ北上した地点だ。
山体と湖上に幾本もの隧道が開削され、その国道を繋いでいる。
ダム堤体を後にしてからまだ数分と経っていないにも関わらず、目の前に現れた隧道は早くも3本目。
徳山湖岸を移動するに当たり、如何にして隧道と橋梁の存在が不可欠かつ絶対的であるかが知れるというものだろう。
隧道のポータル上部には青看板が設置され、隧道を抜けた後直進すればかつての徳山村の集落の一つである塚方面、左折すれば徳山会館に行くと案内されている。
前述の通り、このときは徳山会館を目指しており、跡宮があるということすら知らなかった。従って隧道を抜けてすぐの分岐では左折し、徳山会館の見学を考えていたのである。
そして隧道内へと入坑する。
道幅も広く、充分な光量が確保された至って普通な隧道と呼べよう。
頭上の電光掲示板にもご親切に「交差点有」との文言が表示されており、地理不案内なドライバーにとっても有難い。
出坑。
徳山湖を大胆に突っ切るが如く、橋が目の前に架けられ、広大なダム湖を良く見渡せそうだ。
会館方面に行きたいので、左折して国道と別れを告げる。
テンゴ、いや、テンハチ辺りか?
緩やかな右カーブを描く橋は既に国道では無く交通量も皆無に等しい為、道幅は狭めになっている。
橋が途切れても道の幅はさして変わり無いが、幾分か圧迫感が薄れたようにも思える。
お、駐車場が。
前方右側に小さくコーンの見える場所が徳山会館入口だ。そのまま右に入り車を停めれば会館を見学出来る・・・ことよりも、上のドラレコ画像を見ると、左手に道が続いているようで、どうにも気になる。
何か・・・先にあるというのか・・・?
左に続く道を確かめる為、ゆっくりと相棒TTを進ませる。すると、
ん・・・?
ハーフゲート・・・?
中途半端に塞がれてはいるが、完全封鎖していない上、通行止といった道路標識や看板も見当たらない為、通行は可と見て間違い無いだろうな。
しかしながら、半バリを動かさずに抜けるともなればスレスレまで左に寄る必要がある。
相棒TTの車幅を測り切り、柵の左手から侵攻。
いや、擦りたく無いなら大人しく半バリずらせば良いんだけどさ・・・なんか負けの気がする・・・(笑)。
左の蓋付き側溝にタイヤを載せ、徐行しながら半バリを抜けて行く。
やや崖側の枝が怪しい魔手を伸ばしてはいたが、ギリギリ当たらずに行くことが出来た。
道の具合としては半バリ前と大差無く、可も無く不可も無くと言った、中途半端なものだと言えよう。
徳山会館のある下開田が現在地で、ここから跡宮がある上開田へと進んで行く。
広くなったり狭くなったりで些か忙しなさを思わせる道だな。
所々待避所、というより駐車場クラスのスペースが右手に現れるのだ。
ゲートがある・・・しかも不気味なことに開放されているじゃないか・・・。
加えて徳山会館横の半バリと同じく、特に「通行止」といった類いの看板や標識は見当たらない。
当然先へ進むが、ここまで何も案内が無いと気味が悪くなってくるというのも道理であるだろう。
放置道ではお決まりの光景
チャプターとしては中盤に差し掛かる。
幅こそ相変わらずだが、写真のように崖側から水がチョロチョロ流れ出始めている。
これは、もしかしなくても「お決まりのワンシーン」を実演しなくてはならなくなるか・・・?
やはり・・・か。
元を辿れば会館前の半バリから予想は付いていた。恐らくこの光景を目の当たりにするだろう、と。
つまるところ、いつもの「アレ」を実演するときが来たようだ。
アレ=石(岩)拾い。
ドライバーである不知火が降車し、車体底部をスクラッチしそうな石(岩)を黙々と拾い上げては脇に転がすという作業である。
もはやこの手の放置道では最も遭遇率が高い事象であり、不知火自身、考える間も無く遂行するというルーチンワークになっていると表現しても過言では無かろう。
いちいち石(岩)がある度に乗って降りてを繰り返しては相棒TTのセンターロックが多忙になって可哀想なので、目に付いたポイントは全て作業してから車に戻る。その為、場合によっては100m程度先まで作業をするというケースも珍しく無いのだ。
故に・・・不知火の作業する地点が徐々に・・・遠ざかっているのが・・・
・・・分かるだろう。
通行する他車が皆無なので、焦らされることも無く、若干やる気無さげな、アンニュイとも取れるポージングでアクションをしている。
ようやくか、とでも写真から伝わってくるようで、ゆったりとした動きで相棒TTの元へ戻っていく不知火。
複雑に入り組んだ湖の岸線とゆらゆら揺らめく美しき湖色は、他のダム湖とは一線を画くかもしれない、なんてことをぼんやり考えていた。
虚しさ匂わす一筋の瀑布
作業を終え、相棒TTと奥に向かって行く。
右側に目を向ければ美しいグリーンをした湖水が見て取れるのだが、生憎と悠長に運転していてはまたいつ石が散乱しているシーンに出くわし、うっかり踏んでしまい兼ねない。予断を許さないとまではいかないものの、よそ見をしながらというのはあまり宜しく無いだろう。
おや・・・?前方左側に何やら流れ落ちる水流が2箇所飛び込んで来る。
これって、もしかしなくても・・・
滝じゃね?
ああ、どう見ても滝だ。滝の案内は無論無くて、欄干がガードレールになった橋の下を潜り抜ける形で湖へと注がれている。
この滝にはシッ谷の大タルという名称が付けられており、きちんと徳山村の滝として認知されていたようである。
というのも、かつて徳山村では大きいものをタキ、中くらいのものをタル、小さいものをドボンコと、滝を3種に分けていたらしいのだ。
シッ谷の場合「大タル」なので、「タキ程大きくは無いが、タルにしては大きい分類」と捉えられていたことになるだろう。
シッ谷の大タルがあるのがここだ。
車でも手軽に見ることが出来るはずだが無論他に人影は無く、案内も何も無いこの滝がなんだか不憫に思えて仕方が無かった。
走り応え薄い残り区間の先に
どこか儚げな大タルと後にして、先へ進む。
見ると山の斜面から溢れた水が道路を覆い、洗い越しのような惨状になっていた。
ここもこことて洗い越し。
よく見れば土嚢のようなもので軽くガードされてはいるが、こと水に対しては効果がゼロ。恐らく斜面の補強を担っているのだろうが。
右手にはバリケードで封鎖された、ダム湖へ通じる道が伸びている。
管理用道路か、水没前に使われていた徳山村のかつての道路、か?
先へと走らせる。
林と山の斜面に通された細い道・・・まさしく林道を彷彿させる光景だ。
左手にはさっきと同じようなバリケードと道。
ドラレコ画像として載せていないだけで、実は結構この手の道は多く散見された。
ルートとしては、右の道をそのまま進めば抜けられるはずだ。
対向車が来れば間違いなくバックを強いられる狭い道。
狭い、と言ってもミラーを畳む程では無い為、不知火的には幾分か難易度の低い、楽な道の部類に入るだろう。
そして・・・眼前に見えてきたのは広場のような光景・・・。
つまるところ、ここが終着点・・・。
蒼茫たる徳山湖を望む湖岸の展望地
紺碧が密に張られた湖水、交錯し複雑さを増した山体、遮るもの無く開け広がる蒼穹。
素晴らしいな・・・在り来たりな言葉ではあるが、まさにそう思わずにはいられない。
総貯水量6億6000万㎥を誇る日本一の人造湖、徳山湖。
その圧倒的とも言える雄大な湖は全像こそここから一望出来ないが、片鱗を垣間見るだけでも充分ラージ過ぎるサイズだ。
相棒TTと湖を挟んで反対側に見える茶けた山体からはダム建設の際「コア材」が採取されたという。
その為やや歪な、不可思議な形が上面に残されているのだ。
立ち聳える木々の隙間から徳山湖、漆原上原橋、そして中央奥に冠雪しながら顔を覗かせるのは同岐阜県本巣市、揖斐川町にある能郷白山。
越美山地と呼ばれる福井県、岐阜県(美濃地方)、滋賀県の3地方を繋ぐ場所の中でも能郷白山は最高峰の1617mを誇る。
展望台には屋根と丸椅子の簡易休憩スペースが施され、物音一つしない静謐な空間でゆっくりと休むことが出来る。
トイレも売店も無い、およそ簡素なものではあるが、それもまた秘境と呼ぶに相応しいと言えるだろう。
寂寥漂う社の跡地
椅子の設置された簡易休憩スペースより反対を向く。すると真新しい石碑と階段が目に入って来る。
六社神社跡宮・・・?
レポートの序盤にも示した通り、不知火が現地を訪れている際にはこの場所に何があるのか、皆目検討が付かなかったのだ。
石碑には「神社」なる文言が刻まれていることから、何となく神社関連の何かが階段先に残されているはず。
僅か数十秒で階段を登り終えると、そこには周りを木々に囲まれた中置かれた小さな空間があった。
石組みの二段重ねにされた台の上にちょこんと、小さな石の置物が安置してある。
とても不思議な形をしているな・・・。
像が彫られている訳でも無く、文字が刻まれている訳でも無い。至って普通の石が置いてあるだけのように思える。
もしかしたら設置当初は何かが書かれていて、風雨によって削られたのかもしれないが。
簡易机上調査
水没前の六社神社位置
さて、六社神社が元々設置されていた場所について読み解いてみよう。
跡宮がある休憩場所には「上開田家並図」と書かれた金属板があった。そこにはかつての上開田の家や施設が記されている。
冒頭でも軽く書いたが、六社神社とは上開田にあった神社のことで、創建年は1156年(保元元年)にまで遡る。六社神社は別名六所神社とも呼ばれ日本全国にその名を連ね、天照大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、月讀尊、蛭児神、淡島神の六柱なる神様を御祭神として祀ってことに由来しているという。
神社が建てられた年代こそ平安時代なのだが、人が住み始めたのはなんと縄文時代からだと言うのだから驚きだ。しっかりと石器や土器が発掘されているそうである。
上は国土地理院の空中写真で1975年10月22日に撮影された水没前の徳山村から上開田、徳山本郷、下開田を切り出したものだ。
上開田家並図に描かれていた六社神社の位置から、空中写真と照らし合わせるとこうなる。地形的に見れば、何となく察する方もいらっしゃるかもしれないが、やはりこれだけ見ても現在の地図とどこが変わったかというのは分かりにくい。
上開田、徳山本郷、下開田の載った空中写真と、徳山ダム完成によって新設された道路を付記した周辺地図のレイヤーを重ね、透過させて地図にしてみた。
紫色で縁取りしているのが徳山湖によって水没した水没境界線なので、文字通り3地域が完全に湖底に消えていることが良く分かり、こと六社神社については当初より約440m南側の位置に跡宮を置いたことが分かる。
跡宮までの道はダム建設時の管理用道路
おまけとしてもう一つ個人的に気になった点を読み解いてみたいと思う。
それは六社神社跡宮まで続く道(黄色ライン)のことだ。
もう小見出しで答えを言ってしまっているようなものだが、元々はダム建設時に切り開かれた管理用道路である。
資料によれば、上開田アクセス管理用道路ということになっており、現在においてもダム管理者が通行している。
この上開田アクセス管理用道路は貯木場と呼ばれる場所に繋がっていて、それが跡宮へ通じる道の最終分岐(Y字路)を左に進んだところにある。
ダム湖には種々の要因によって流木等が流れ込んで来てしまい、そのまま放置するとダム放流設備を良好な状態で運用することが難しくなってしまう。それを回避する為に流木等を拾い集め、乾燥させてから廃棄することを目的として仮置き用の貯木場が設置され、管理用道路が作られたのだ。
同時に展望台としての役割、六社神社跡宮の役割も担っているのだから、理に適った開削路と言えよう。
終わりに
あまりにも巨大で、一見すると最初からこの地形だったのではないかと錯覚してしまう徳山湖。
しかしながらその湖底には長い月日を掛けて栄えてきた徳山村の大半が沈み去られたことは変えられない事実であり、六社神社をはじめとした数多の建築物が静かに朽ちてゆくのもまた同じである。
美しく居を構えるダム湖の背景には必ずと言って良い程に人々の複雑な思いが詰め込まれているということを決して忘れてはならないだろう。
終
相棒TTと撮影したオススメスポットを地図にまとめています。
良ければ愛車と写真撮影する際の参考にして下さい。
記事内にイチオシスポットも挙げて幾つか紹介しています。
今まで訪れた秘境スポットを地図にまとめています。
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僕が行ったことのある観光地をマイマップにまとめました。
観光地についてもそれなりに行っていますので是非見てみて下さい。