【千葉県】【秘境】美しく巨大な日本刀のオブジェ!?小野次郎右衛門忠明生誕地公園

【千葉県】【秘境】美しく巨大な日本刀のオブジェ!?小野次郎右衛門忠明生誕地公園
 


広告



日本刀

 

日本の伝統的な鍛冶技法によって生成された刃物である。

 

「折れない、曲がらない、が、よく切れる」という3つの相反事象を併せ持つ、言わば至高の刀剣と称することが出来るのではなかろうか。

 

その洗練され、無駄の無い外観は美術品としての価値も高く評価されており、博物館のみならず個人での収集家も多くいるほどだ。

 

今回は、千葉県のとある公園に置かれたバカデカイ日本刀(モドキ)についてレポートしたい。

 

小野次郎おのじろう右衛門うえもん忠明ただあき生誕地公園せいたんちこうえん

OpenStreetMap and contributors CC-BY-SA

千葉県の最南部に位置する南房総市は1年を通して比較的温暖であり、日本一の生産量を誇る房州枇杷が有名である。

 

他にも関東地方においても最南端であったり、日本酪農発祥の地であったり、日本最多の道の駅数だったり・・・となかなかに注目度の高い市なのだ。

 

その南房総市に本レポート物件である小野次郎おのじろう右衛門うえもん忠明ただあき生誕地公園せいたんちこうえんがというやったら長い名称の場所が居を構えている。

 

名の通り、小野次郎おのじろう右衛門うえもん忠明ただあき、という人物の生誕を記念した公園だというのだ。

 

どのような人物か説明すると・・・長くなるのでまずはレポートをご覧頂きたい。

 

スルー率99.9%な入口

現在地は国道410号線、南房総市御子神みこがみ付近である。

 

国道410号線と言えば、房総半島を代表する重要な幹線道路として有名だが、不知火的にはやはりあのスポットが真っ先に脳裏をよぎる。

 

 

OpenStreetMap and contributors CC-BY-SA

現在地。生誕地公園までは本当にすぐ近くで、迷うことなく辿り着きそう・・・なものだが、ここにビミョーなトラップが仕掛けられているのだ。

 

入口・・・なのだが、何を隠そう目印が全く無い。そう、ビミョーなトラップとはズバリ、入口の案内がゼロのことだ。

 

したがってしっかりと入口をストリートビューで予習したりカーナビに登録しておかなければ、初見で間違えずに入ることは不可能。

 

不知火もストリートビューで入念な「仮想下見」をしていたにも関わらず、華麗なスルーをキメてしまい、恥ずかしくも数十メートルバックする羽目に陥ってしまった。いと、はずかしからずやとても恥ずかしい

 

気を取り直して先に進もう。

 

国道から脇道に入ると、如何にも集落に続いていそうなセンターラインの無い道に様変わりした。

 

脇道に入ってから100mかそこらですぐに分岐が出て来る。

 

TTがいる方向がこれから進む方面で、写真左側の道が今来た方面である。

 

ご覧のようにザ・ド田舎。

 

 

OpenStreetMap and contributors CC-BY-SA

現在地。OpenStreetMapには描かれていないのだが、細い農道があるのでそちらへ進んで行く。

 

ポツンとTT。

 

両脇に害獣除け柵が設けられており、離合など完全にムリな仕様となっている。

 

そこから奥へ、奥へと進む。

 

無論テクニックなど必要無く、ゆっくり行けばノープログレム。

 

・・・しいて言うならば、農耕車が現れてバックすることがあらんことを願うことくらいか。

 

ぐるんと左にカーブ。

 

見通しは良く、全く狭くは無いので普通に曲がればオーケーだ。

 

適度に曲がりくねりながら奥に続く道。

 

多少気にしながら進むことになるのはここくらいか。

 

幅員は一応2m確保されているので、「車幅感覚試験」には全く成り得ないが、横幅がややでっぷりとした相棒TTの場合、車内から見える風景はちょっとキツキツ気味に見えなくも無い。

 

しかも両脇は農家の方々の大事な田畑である為、絶対に転落など許されない。

 

・・・からちょっと気を使いながら走ることにはなる。

 

フロントショット。やはり相棒TTのご尊顔はキマッておりますな・・・。

 

ただし運転席側は植物が生い茂っているのでドアを開けるとヒットします(笑)。

 

OpenStreetMap and contributors CC-BY-SA

現在地。脇道から先の農道は物足りなさを感じる程あっという間で、駐車場へと辿り着く。

 

ガラリと静かな空間

駐車場にて1枚。ガランとしており、何も無い。

 

見ての通り下は未舗装、ダートとなっており、4、5台分くらいの駐車スペースと言った感じだ。

 

入口には「小野次郎右衛門忠明生誕の地記念公園」という木碑が置かれており、「あ、着いたんだな」と再認識出来る。

 

さっきも書いたがここまで全く案内が無いので、農道に差し掛かった辺りで「え、本当にここで合ってるの?」という気持ちになっていたのでなんというか、安堵した不知火。

 

特筆すべきことが思い付かないくらいの物寂しい空間だが、ちょっとした撮影会が出来るかも?

 

・・・などとボンヤリ考えていると背後に暗銀色の棒が写っていることに気付いた。・・・もしやアレが例のブツか・・・?

 

駐車スペースから徒歩で近付いていく。

 

遠目からでもハッキリと分かる異質な存在感。

 

徐々にその姿が明らかになっていき、不知火の胸も高鳴りを増す。

 

そして・・・そのベールが今、脱がされる・・・!

蒼天仰ぐ巨なる銀躯

目を惹く存在感の君臨

陽光浴びて反射す銀躯、閑散とした広場、心洗われる田舎風景・・・。

 

どこにでもある一般的な公園・・・その一角に異形とも言える巨大な主が居座っていたのである。

 

石組みの台座に掛けられた日本刀。

 

剣×台座の組み合わせを見ると、ゼルダの伝説のマスターソードか、アーサー王伝説のエクスカリバーを彷彿させる。

 

これを聖遺物として英霊を召喚したり・・・される訳が無いが。

 

まっこと、青空の下に良く映える被写体だわな。

 

或いは満月の深夜に撮影場所として選んだら激映えな写真が撮れるやもしれぬ・・・。

B級スポットには惜しい凝ったディティール

美しく磨き抜かれた刀身。

 

曇り一つ無いとは言えないが、背景が映り込んでいることから、定期的に有志の方々による手入れが施されているのだろう。

 

本物のような・・・は言い過ぎにしても、目釘穴めくぎあな刃文はもん切先きっさきが表現されており、大きさも相まってなかなかに圧倒される。

 

個人的にはユニークなスポットである為、不知火的にポイントは結構高い。惜しむらくは施設はおろか、トイレすら無いことだろう。

 

そして台座にはしっかり「小野次郎右衛門忠明生誕の地」という言葉が刻み込まれていた。

 

字体が何なのか不知火にはよく分からないが、読みやすく美しい字形が印象的だ。

 

ズッパシ、食い込んでいますな。

 

・・・これ以上の言い回しが思い浮かばない。

 

オブジェに施された地味なギミック

日本刀のオブジェのぐるりを囲う石達。

 

一見すると何の為に置かれているのか疑問に思ってしまうが、よく見ると規則正しく円状に配されているのが分かる。

 

恐らくなんとなーく予想している方もいらっしゃると思うが・・・

 

そう、日時計になっているのである。

 

腕時計を見るときっかりしっかり正午。そして当然日時計も正午を指していた。

 

ぶっちゃけた話、人がろくすっぽ訪れないこの場所で凝った日時計を作るのはなんというか、勿体無い。

 

ざっくばらんに古地図

ちなみに日本刀の根元にはこれまた石の台座があるのだが、千葉県を中心とした古地図が展開されていた。

 

勿論ざっくばらんとした場所に、地名が書かれたものだ。しかしながら、「なるほど、かつてはこう呼ばれていたのか」と知るには充分である。

 

千葉県の場合、房総半島の南端付近を安房あわ房総丘陵と呼ばれる中心付近を上総かずさ浦安や銚子を含めた北千葉を下総しもうさと呼称する。上が下総で、下が上総なのは恐らくかつては京都が都であり、それに近い方が「上」と名付けられたのだろう。今で言うと東京に向かうのを上り、離れるのを下りと呼ぶのと同じ理屈だ。

 

下総付近では香取かとり本佐倉もとさくら印旛沼いんばぬま、千葉、小金原こがねはらの地名が見て取れる。

 

香取には鳥居があることから香取神宮を示し、本佐倉には城があったことから佐倉城を示しているのだろう。左上に小金原と書かれていて剣が交わるマークがあるのだが、これは合戦があったことを示している。この合戦については後程説明する。

 

上総では久留里くるり大多喜おおたき万木まんぎに城のマークがある。

 

大多喜城というと、かの超絶有名な最強戦国武将、本多忠勝が浮かぶ。生涯において57回にも及ぶ戦に赴いたとされているが、その全てにおいて掠り傷一つ負わなかったという伝説の武将。その本多忠勝が城主となり、大改修を行い城下町の建設を施したことで大多喜城は知られている。

 

見切れているが安房の方には加茂川や丸と書かれている。

 

加茂川というのは現在の鴨川市のことではなく、一般的な川のことを指している。

 

で、丸というのがここ、生誕地公園のことだ。かつてここには丸村という集落があった為、恐らくはその名称だろう。

 

小野次郎右衛門忠明の生涯

日本刀の刺さっている台座の裏を見やるとそこには小野次郎右衛門忠明の生涯が刻まれていた。

 

・・・しかし長ったらし過ぎて字が細か過ぎて写真の字を読む気にはならないだろう。

 

なので、ここで彼の生涯を書き綴りたいと思う。

 

1569年、室町時代も終わりに差し掛かる頃、安房国朝夷郡御子神村に生まれ、「御子神典膳みこがみてんぜん」と名付けられた。文献によっては「神子上」と書かれることもあるというが、いずれにせよ「御子神」を元とする姓名である。

 

1589年、典膳が20歳のときには里見義康に仕えており、後に彼の師匠となる剣豪、「伊藤一刀斎いとういっとうさい」と出逢い試合を申し込むが敗れ、弟子入りしたという。元々伊藤一刀斎には善鬼という兄弟子がいたが、一刀流の後継者を賭けた決闘を行うこととなる。この決闘は相馬郡小金原(現在の松戸市小金原)にて典膳が討ち取った。ちなみに先程古地図に刀が交じり合うマークが小金原にあったのはこの戦いである。

 

1593年に典膳は、江戸にあった膝折村というところで、殺人を犯した剣術者が民家に立て籠もっていたが、これを倒した。このことがあの徳川家康に認められ、息子徳川秀忠への剣術指南役を承った。この頃を持って御子神という姓を母方の「小野」に改めた。

 

1600年に勃発した関ヶ原の戦いにおいても上田城攻防戦で活躍を示した。更には秀忠に一刀流の秘事を伝授したことが讃えられ、褒美の品に加え、秀忠から一字を賜り忠明と改名した。

 

1628年、60歳にて逝去。下総国埴生郡寺臺村の永興寺に葬られた。

 

ちなみに「小野次郎右衛門忠明」の「次郎右衛門」は何か調べてみたが、「次郎」は輩行名はいこうめい、「右衛門」は百官名ひゃっかんめいという。伊藤一刀斎より伝授された一刀流は、代々正統な後継者の証として「次郎右衛門」を名乗っていたそうだ。

 

つまりこの小野忠明に関しても「正統な一刀流後継者」という証明として「小野次郎右衛門忠明」の長ったらしい名前となったのだろう。

 

 

終わりに

戦国の乱世に生まれた小野次郎右衛門忠明。

 

マイナーで、歴史好きな人でも知らないくらいマニアックな人物であろう。

 

しかしながらその活躍ぶりはなかなかに目を見張るものがあり、正直もっと注目されても良いのでは、と思う程だ。

 

公園としては寂しいくらいの作りだが、一人静かな時を謳歌したいという方には是非とも勧めたい。

 

 

 

秘境カテゴリの最新記事